いわさきちひろの母が過ごしたまち、武生(episode 14)

平和と幸せを section1
いさわきちひろが生まれた武生は、
母・文江の思い出の場所だった。
JR武生駅から10分ほど歩くと、市街地のなかでも昔ながらのまち並が残る場所に、日本を代表する絵本画家いわさきちひろの生まれた家がある。
いわさきちひろといえば、子どもの姿をやわらかい色彩で描いた水彩画を思い浮かべる人も多いだろう。「世界中の子どもみんなに平和としあわせを」と願い、描き続けた作品は、時代を超えても観る人の心をゆさぶる。
ちひろが武生(現在の越前市)で暮らしたのは、実は生まれてから生後3ヶ月までと短い期間であった。しかし、武生はちひろの作品や生き方に大きな影響を与えた母・岩崎文江(いわさきふみえ)の思い出深い場所だったのである。
なくてはならない存在 section2
母の影響を受けたいわさきちひろ
「ちひろのお母さんはとても素敵な方だったんですよ」
と、語るのは越前市で学芸員を務める用田聖実(ようださとみ)さん。2018年に越前市で開催されたいわさきちひろ生誕100周年の記念展にかかわり、いわさきちひろや母・文江の文献調査やゆかりのある人への聞き取りを行った。
▲展示してあるちひろの母・文江の写真
ちひろを語る上で、母・文江はなくてはならない存在だ。
「文江さんは、ちひろが幼少の頃からクリスマスには帝国ホテルに連れて行ったり、家ではオルガンを置いて音楽を学ばせたりなど、文化的でリベラルな教育を大切にしていました。ちひろは、山登りが好きな文江さんの影響でスポーツが得意でしたし、当時はまだみんな着物をきているところ、海外から取り寄せた服や文江さんが手づくりした洋服を着ることも多かったんです。おしゃれなことでも有名でしたね」
ちひろの作品には、美しい色調やモダンなデザイン、いかにも着心地のよさそうな服を着ている子どもたちが登場するが、まさに彼女が幼い頃から培われたファッションセンスの表れだろう。また、西洋で発達した画材を積極的に使っていたのも、幼少期から海外の文化にふれていたことが少なからず関係しているのかもしれない。
愛情に溢れ、豊かな感受性に満ちた作品を描いてきたちひろ。彼女に大きな影響を与えた母・文江は一体どんな人物なのだろうか。
なくてはならない存在 section2
武生での六年間 section3
教師として過ごした武生での充実した日々
文江は1890(明治23)年、現在の長野県松本市の教育熱心な家庭に生まれた。幼い頃から優秀で、奈良女子大学の一期生として教師の道を志し、卒業後、いわゆる新卒で武生の女学校に赴任する。
当時、日露戦争後の日本では女子教育の機運が高まっており、武生にも念願の「町立武生女子実業学校」の開校を果たすことができた。成績優秀だった文江は、奈良女子高等師範学校からの推薦を受けて単身赴任してきたのだ。
活発で人間的にもあたたかい文江は校長や生徒からの信頼も厚く、女学校に併設された寄宿舎の初代舎監を任されることになる。
「文江さんは6年間を武生で過ごしますが、寄宿舎での生活はとても楽しかったようです。当時のことを『あんなに面白く、あんなにあたたかい愉快な生活は、又とない』と同窓会誌にも綴っています」
▲文江が当時過ごした寄宿舎の写真も展示してある
かけがえのない場所 section4
妻として、母として、教師として
武生に赴任して5年後、文江は同じ長野出身で海軍技師の倉科正勝を婿養子に迎え結婚する。しかし、文江は教師の仕事を続けるため、そのまま武生へ。結婚式の4日後には離れて暮らすことになり、今でいうところの別居婚から新婚生活がスタートした。
結婚は親が決めたもので、式まで顔を合わせたこともなかった二人。しかし、離れて暮らすなかで、頻繁に手紙のやりとりをしていた二人には、次第に夫婦の絆が深まっていった。
「結婚したばかりの手紙はお互いよそよそしい感じなのですが、結婚生活が長くなってくると、手紙の文面がラブレターのようになっていくんです。結婚してから恋がはじまる、そんな関係も素敵ですよね」と用田さんも微笑む。
やがて身ごもった文江は舎監を辞め、現在「ちひろの生まれた家」がある天王町に引越し、無事、ちひろを出産。なんと、出産後1〜2ヶ月で職場復帰し、授業の合間に学校と家を往復しながら授乳する日々を過ごしていた。
▲ちひろを抱く母文江 1919年2月
ちひろが生まれて約3ヶ月後、シベリアに遠征していた夫の正勝が帰国したことから、文江は武生を離れ東京へ。武生を離れた後も20年以上にわたり教鞭をとっていたが、ちひろとともに同窓会に参加するなど、武生の教え子たちとの交流は晩年まで続く。文江にとってはじめての赴任地だった武生は、かけがえのない場所だったのだろう。
かけがえのない場所 section4
ちひろの生まれた家 section5
ちひろと文江が過ごした当時の暮らしを再現
その後、絵本画家として多くの作品を残したいわさきちひろは、55歳の時に原発性肝ガンで死去。文江はその3年後の昭和52年に86歳でこの世を去った。
「ちひろの生まれた家」は、現在は記念館として一般公開されており、文江とちひろが暮らしていた頃の様子を紹介している。
館内では、ちひろの母・文江が暮らした大正時代の趣を復元しているほか、ちひろの東京の自宅に設けられていたアトリエも再現。ギャラリーでは季節毎にちひろ作品の企画展を開催しており、県外から訪れるいわさきちひろファンも多い。
▲武生に赴任した母・文江が過ごした部屋をイメージした和室
当時の面影を残し、静かな時が流れる「ちひろの生まれた家」。ちひろの世界観が溢れる作品に囲まれながら、文江とちひろが過ごしたひと時に思いを馳せてみてはいかがだろうか。
▲いわさきちひろ 1973年4月
文:石原藍
Text / Ai Ishihara
  • インフォメーション
名称

「ちひろの生まれた家」記念館

住所
福井県越前市天王町4-14
電話
0778-66-7112
HP
http://chihironoie.jp/