千年語り継がれる『源氏物語』
日本文学史上に確固とした存在を放つ『源氏物語』は、20ヵ国以上の言葉に翻訳され、今や世界中で読まれている長編小説である。日本人ならその名を知らない者はいないだろう。
その作者である紫式部は、たった一度だけ都を離れた。移り住んだ先は、この越前国であった。若き頃に滞在した越前で、彼女はさまざまな想いを巡らせ、見た風景、触れた物、交わした会話が、その手記によって残されている。
越前市の「紫式部公園」には、金色に輝く紫式部像が日野山に向かって、今も佇んでいる。十二単を身に纏い、真っ直ぐに前を向く清々しい表情の紫式部には日本を代表する物語を生み出した誇らしい表情にも思える。
ここで、彼女の言葉によって紡がれる越前の里を、改めて味わってみたい。
父・藤原為時と共に越前へ
紫式部が越前国に移り住むきっかけとなったのは、父・為時の赴任であった。
『今昔物語集』によれば、紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)は、文才に恵まれながらも下級貴族であったために不遇の生活を送っていた。
しかし、一念発起して一条天皇に差し出した漢詩の出来栄えがよく、996年(長徳2年)に越前国の国司に任命されたのである。
国司は現在の知事のような役職であり、越前国は他の地方国に比べて大国であったことを考えると、為時は異例の出世により越前国に赴任してきたと言える。
為時に連れ添って共に越前国へやって来た時、紫式部は18〜20代ぐらいの年齢だったと推測されている。住み慣れた京の都から地方への移住は彼女にとって戸惑いもあったようだ。後世に残された彼女の手記に、その鱗片を感じ取ることができる。
綴られる越前の記憶
紫式部の越前国での生活の様子は、『紫式部日記』に書き残されている。
例えば、冬の日。日野山に積もった雪を眺めながら歌った歌がある。
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」
この歌には、日野山に積もりゆく雪を眺めながら、都にある小塩山の松を思い出して、望郷にふける紫式部の気持ちが表れている。都ではあまり触れたことのない雪景色は、鮮明に映ったのだろう。
五十四帖からなる『源氏物語』の第五十一帖「浮舟」、第五十二帖「手習」の中でも、「たけふ」の地名が登場する。都から離れて暮らした越前国の国府「たけふ」が、紫式部にとっても忘れ難い土地になっていたに違いない。
また、越前和紙との出会いについては、物語を紡ぐ紫式部にとって大きなインパクトを与えたと考えられる。
和紙は当時、高級で限られた者しか使えず、下級貴族であった為時にとって本来は簡単に手に入るものではなかったが、和紙の産地と流通経路が身近にあったため、様々な和紙を手に入れる機会があったようだ。
『源氏物語』は次の千年へと伝えられて
紫式部と越前市の関わりについて、「源氏物語アカデミー」の委員長である石川製紙株式会社 代表取締役社長の石川浩さんはこう語る。
「『源氏物語アカデミー』は、3日間でのべ100名ほどの方にご参加いただくのですが、毎回越前のまちを巡ってもらいます。紫式部についても、僕より詳しい方が多くいらっしゃって毎年勉強になっているんです。紫式部は越前国から得たものも少なからずあったはずですし、こうして今でも人々の交流を生み出していることを考えると、後世に残した財産は大きいですね」
源氏物語アカデミーは、旧武生市の市政40周年記念事業として昭和63年に発足されて以来、30年以上にわたって『源氏物語』を取り巻く歴史文化を越前の地で学ぶ講座や見学会などを行っている。中には20回以上参加経験のリピーターもあり、全国の『源氏物語』ファンの拠り所になっている。
実際に紫式部が越前のどこに住んでいたかは明らかにされていないが、現在の国府一丁目にある本興寺(ほんこうじ)周辺だったのではないかと言われている。
本興寺には、紫式部ゆかりの梅の木が残されいる。
越前の滞在の後、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)との結婚のため都へ戻る際、一本の白梅の木を残した。そして紫式部が亡くなった後、娘の賢子(けんし)が母を偲んで紅梅を植えたという言い伝えである。現在、境内にある紅梅は四代目とされている。
「むもれ木の 下にやつるる 梅の花 香をだに散らせ 雲の上まで 」
(埋もれ木のように目立たず咲く梅の花よ 香りだけでも空へと散らしておくれ)
埋もれ木のように咲いている梅の木にも目を向けた紫式部の細やかな感性と、1000年に渡って世界中で読み継がれる物語を越前和紙に綴った偉業は、現代の越前に住む人々にも澄んだ梅の花の香りのごとく芳しく届いている。
文:佐藤実紀代
Text / Mikiyo Sato
<参考資料>
『図説 福井県史』
『源氏物語アカデミー』
『文化財からみる越前市の歴史文化図鑑』越前市教育委員会 2016